台風シーズンもこれで終わりでしょうか。
これからどんどん冬に向かって寒くなっていきますね。
僕はこれまで暑いよりかは寒いほうがまだましだ。と思っていたのですが、
最近、この考えを覆す事件がありました…。
この夏、僕は友達とネパール、ブータンに渡航していたのですが
その時の山登りでの出来事です。
ガイドさんから「今回のトレッキングは初心者向けのハイキングみたいなものだから」と聞かされていたので、僕は気軽にいつもの服装(半そで半ズボン)に雨具だけ持って山に向かいました。
すると、、、思ったよりハード!集中豪雨!しかも、山頂寒すぎ!
さらに三重苦の僕に更なる試練が襲い掛かりました。そう、登山病です。
ガイドさんに改めて山頂の高度を聞くと4000m超だとか。
(先に言ってくれよ…)と怒る気力もうせるほどの震え、手足の冷たさ、頭痛…。
本当に凍え死ぬのでは??と感じた旅行になりました。
あ、申し遅れました。今回記事を担当いたします。
IDPCスタッフの中圓尾岳大(なかまるおたかひろ)と申します。よろしくお願いします^^
今回、僕が話したいこととブータン、実は少し関係あるのです。
そのための前振りでもあったのですが。
みなさん、ブータンという国名を聞いて何を思い浮かべますか?
雷竜、独特の伝統文化、豊かな自然、また最近有名になったキーワードでいえば、「幸せの国」などなど…。
イメージはなんとなくつきますが、実際いったことがある人は少ないのでは??
今回僕がブータンを旅行し、最も考えせられたキーワードは「宗教」です。
今回は「宗教」について未熟ではありますが、感じたことと考えたこと書かせていただこうとおもいます。
かといって別に重い話をするわけではないので(笑)
軽い気持ちで読んでいただけると嬉しいです。
ブータンで衝撃を受けた場面第一位は、仏僧の子供から老人までが、山奥の寺院で念仏を唱えながら一心不乱に五体投地で仏像に祈りをささげるシーンでした。
ガイドさんに聞けば、なんでも一定期間に10万回のお祈りを捧げ続ける修行なのだとか。そう言い終えたガイドさんも各寺院を回るごとに五体投地式のお祈りを仏像に捧げるのでした。
ご存知の方も多いとは思いますが、ブータンは世界で唯一チベット系仏教(正確にはドゥク・カギュ派)を国教としている国なのです。また、宗教を国全体が信仰し、生活に宗教文化が深く根付いているのです。
話はもどりまして、、、。
目の前でそのようなお祈りをされた僕はそれを何か「異様な」光景だと感じました。
未知の世界の威圧感に圧倒されたのです。
ブータンの人たちに宗教について聞いてみると、嬉しそうにその歴史や、物語、重要性を語ってくれます。ガイドさんによるとブータンの幸せの秘訣はお酒と、信仰だそうです。
みなさんは、どう感じますか?
なぜ、僕が「異様だ」と感じたのでしょう。これは決して文化の否定の感情ではありません。それは、僕がブータン国境の信者ではないからであり、究極には僕が無神論者であるからかもしれません。
無神論を信じる理由は多々あります。サルトルを中心とした実存主義が自分には合っていたり、カント哲学的に道徳は自律的なものだ(いわゆる地獄に落ちるから悪いことやめなさい論はただの利己主義)と思っていたり、その他古典的な神の証明の脆弱性を本を通して知ったり(存在論的証明、宇宙的証明など)(参考文献:精神の自由ということ≪アンドレ・コント=スポンヴィル≫)。
宗教は昔から、特定の地域に根付き、その地域の文化と密接に絡み合ってきました。
そういった面から、ある国を深く知る、また開発援助などでかかわっていこうとしたときに、宗教という要素は非常に重要になってきます。
少しイスラム教に話を移しましょう。
時代が流れるにつれて、女性の権利が徐々に認められ始め、男女平等の考えはグローバルスタンダードになりつつあります。…と、それはほんとでしょうか?
確かに1979年国際連合において、女性差別撤廃条約が可決され、採択されましたが、この条約は「まるで無数の穴の開いたチーズのようだ」と揶揄されるように、実に55か国もの主にイスラム教を国教とする国が留保しているのです。
もちろん、イスラム教にもそれなりの論理があり、それを調べるのもかなり面白いと思いますが、とにもかくにも、宗教を背景とした文化の対立が各国家間にある限り、グローバルスタンダードなるものが存在するのはかなり困難なようです。
イスラム圏の女性たちが、西欧的な女性の権利を求めてヴェールを脱ぐ、というのは最近よく聞く話ですが、逆に、イスラム的な倫理観に回帰する人たちも増えているんですね。なぜでしょうか。
その理由としていくつか挙げられるのは、①イスラムの教えに忠実に従うため②かぶって教えに忠実に生活することで、社会進出するため(イスラム女性の将来が開けるためにはこのステップを踏む人用があるのでしょうか)③服が少なくて済むから経済的にいい(…なるほど…!)
少し話はそれましたが大事なことは、時代によって、宗教離れ宗教回帰の流行はあるにせよ、宗教と人間社会は(たとえ無神論な人、国であっても)共存していく運命にあるということです。
ところで、あなたは自分の宗教をご存知ですか?先祖代々無宗教という家の方は少ないはずです。ちなみに僕は浄土真宗大谷派です。
宗派の教えの内容についてはどうでしょう?
知っている人はなかなか少ないのでは。
僕が最後にここでいいたいことはまさにこのことについてです。
今日の日本では、「宗教」というキーワードが一種のアンタッチャブルな領域に含まれてしまい、このことに興味を持つことは暗黙の了解のうちにタブー化されてしまいました。
理由としては、やはり宗教をスピリチュアルで半ば狂信的だと感じるからであることが挙げられると思います。
確かに宗教は各個人の信条の自由に関する事柄であり、ブータンの人にはブータンの幸せ、イスラムの人にはイスラムの幸せがあります。ゆえにセンシティブにならざるを得ません。
ですが、怖いものとして、顔を背けて逃げてはいけません。向き合うことが重要です。
なぜなら、世界を理解するうえでとっても大切なものだから。
世界の平和=お互いの価値観を理解し合うことは、あなたの一歩から始まりますよ!^^
なんか、かっこよく締まった…! のかな?
ありがとうございました。
次回の記事もお楽しみに!!
さて当blogをご覧の皆さん、本年のノーベル平和賞に日本の憲法9条がノミネートされていたことをご存じでしょうか?或いはノーベル平和賞に選ばれた方が良いと思っておられましたか?
今日はもし9条が本当にノーベル平和賞として選ばれていたらという仮定の下、この問題を国際政治学的に考えてみたいと思います。
安倍首相、そして自民党は9条を改正し、集団的自衛権を認めることによって自衛隊の役割を拡大しようとしています。特に集団的自衛権は連日新聞を賑わせる話題ともなっておりました。しかし、仮に9条がノーベル平和賞を受賞したとすると、安倍首相としてはこれを改正するわけにはいかないでしょう。
ともすれば、改正しようとした自民党に対し多くの国家が反対の姿勢を示す結果にもなったかもしれません。そして結果的には、安倍首相の構想にあった日本の国防政策を変えざるを得ない結果となっていたでしょう。
今回の話は、僕の大学での教授の議論に沿った話ではあるのですが、ノーベル平和賞に選ばれることはもちろん、良いことに違いありません。しかしながら、それが日本の政治的立ち位置をも動かしかねないということを再認識する案件でした。
こんにちは。書く書くと言いながら長い間ブログを書かずに、代表からも催促されるようになりようやく投稿欄に文字を打つようになりました、企画局の平原です。
まず、コンテストの参加者募集が終了しましたが、たくさんのご応募、本当にありがとうございました!みなさんの熱意に感動したのと同時に、果たしてみなさんのご期待に応えるような企画が出来上がるのか、不安な気持ちもこみあがってきました。しかし、コンテスト運営の一スタッフとして、最後までみなさんの期待に応えることはもちろん、それ以上のものが提供できるようがんばっていくつもりです。
企画局は今ケースづくりに励んでいて、国内のNGOさんなどに話を聞きに行ったり、その情報をケースに起こしたりしています。この間は、岐阜の高山市にあるソムニードさんにお邪魔させていただき、たくさんの貴重なお話をお聞きすることができました。ソムニードさん、ありがとうございます。何かと難しいこともありますが、なんとか頑張っています。
さて、今回は最近私が考えていることを書きたいと思います。
みなさんは、何か目的を持ってこの分野に携わっていますよね。では、その目的ってなんですか?具体的には、何をどうしたいとお思いですか?途上国の貧しい人々を幸せにするためですか?
質問攻めにしてしまいました。
では少し質問を変えます。
じゃあその途上国の貧しい人々を幸せにするってどういうことですか?何がどうなったら貧しい人は幸せになりますか?最終的にどうなったらプロジェクトは「やってよかったもの」になりますか?
また質問攻めにしてしまいました。
でも、これを考える事は非常~に重要だなと、ソムニードさんにお話を聞きに行って思いました。これを読んでいるみなさんにもそれを一緒に考えていただきたいです。
最終的に目指すものは何なのか、どういう世界なのか。日本のように、途上国と呼ばれている国が発展していくことなのか(日本は経済成長の時は無敵だったけど、今やたくさんの問題を抱えていて国際競争力もこれからどんどん低下していくのではないかと私は思います(住みやすいのは間違いないけど!))。
ずらずら書いてきましたが何が言いたいかというと、評価の軸はどこにあるのか、ということです。
私も、自分で答えが出ていません(!)
問題提起だけになってしまい申し訳ありませんが、ぜひ、みなさんも考えてみてください。
平原
いきなりですが、なんで、私を含め多くの人は自分だけで夢を叶えようとするんでしょう。
しかも、やらなくちゃ!って思ってること。こうすべきだってわかってるのにやらないですし。
それで自分に絶対うそはつけないから、やってないことを考えて落ち込んだり夢を諦めるという。
ときに、私はハチクロが好きです。
その著者の羽海野チカさんが描いている「3月のライオン」という漫画で、
とてもしっかりした中学生のプロ野球を目指す男の子が、高校生のプロ棋士の主人公に
「中学でプロ棋士になって高校はいかないって決めたのに、今また高校に入学したのか」と
質問しているシーン。
その理由が、「自分を信じろって言われるけど、でも自分はちょっとでもサボったことを知っていて。」
「だからそういう(後ろめたさ)のをなくしたかった」
わかりますかね?(汗
ここで言いたかったのは、間違ったことをした後でいくら言い訳しても、
心ではそれをちゃんとわかってるから、ずっとそれが負い目になってしまう。
だから自分の心に正直に、正しいと思うすべきことをしていくことが大事、ということです。
でもそれって人と状況によってはとても勇気がいることですよねー。。
たとえば規則正しい生活。
これは精神的にも肉体的にもとても重要だってわかっていること。
模擬国連の友達が、夏に京都に行って1週間ほどお寺に泊まり込みで
禅、夜9時に寝る、精進料理を食べる等をしたら、
日を追うごとに心が洗われるのをとても感じたそうです。
じゃあ夢をかなえるのはどうか。
国際協力の分野なら、そのためにやるべきこととして語学、専門分野を磨く、プレゼンテーション能力をつける、
途上国での何年かの渡航経験、専門分野での職歴などなどあります。
国際協力の分野で働こうとしている人もしくは既に働いていて
問題解決のために奔走している人は、自分がやるべきだと気付いたことは
全て実行しているのか。
上記の2つもそうですが、やるべきだと気づけたらちゃんと実行している人は、
自分を含めてやっている人はほぼいないと思っています。
これは自分に対してだけでなく人に対しても同じです。
自分が悪いのに謝らない。
ありがとう、ごめんなさい、愛してるって言わない。
これは「7つの習慣」シリーズで繰り返し言っていること。自分の心に従えばどんなにいいことかっていう。
でも最近、夢を叶えることに関して人に頼るとか、一人じゃなくてみんなでやること
もアリなのかなーって思ってきました。
先ほどの漫画、「3月のライオン」でのあるシーンで、
主人公が不安を抱えて一人で鬱になってるとき、高校の担任の先生が主人公に、
「こっちから相手に頼らないと、その人は(いくら助け合いたくても)自分を頼れないんだ」
と言っていました。
誰でも人から頼られるのは嬉しいし好きですよね。
私は人に頼るのが苦手です。代表だったのにどうよって感じですが。。
自分のことは自分で決める。っていうスタンスで、でも周りにはいくらでも頼ってねーって
色々手助け?してて。
でもそれってあんまり良い関係じゃないかも。
これを夢の話、自分の人生の話になると、
夢は大きなものが多くて、国際問題を解決したい!とかだと余計にそうで。
実現のために色々すべきことがあるけど、それを全部実行できる意思を持ってる人は
そうはいないのかなと。
だから、確かに自分の夢だから自分で叶えたいのはとてもわかるけど、
そのプライドは応援しようと思ってる周りからすると単なる壁でしかないから
むしろ積極的に巻き込んだらどうよ?と思いました。
この良い例が「甲子園」
高校球児って、甲子園で優勝したいっていう夢があって、でも自分だけ、チームだけではそれは
成し遂げられない。選手の家族、サポートしてくれる学校や、地元の人たちがいてこそ実現できるもじゃないかなと。
巻き込まれた人って、「熱闘甲子園」を見る限りとても幸せそうで、
甲子園で優勝したい!!っていう選手の夢が、いつの間にか自分の夢になってたりしますよね。
こういう風に、私も含め色んな人が自分だけで夢を叶えようとするのではなく、
―というか人はそんなに強くないし知らないだけで色んな人に支えられてるので―
どんどん巻き込んで頼っていったらもっと良い世界になるのでは。と思います。
以上、長文になりました。